【感想】ARASHI's Diary -Voyage- #19
ARASHI's Diary -Voyage- #19 を観た後のただの一般人が荒ぶるまま書いてしまった感想です。
【注意】
⚠︎Netflixドキュメンタリーのネタバレを含みます。ご注意下さい。
⚠︎文章力が壊滅的かつ拙い文章ですがお許しください。
⚠︎無駄に長いです。
⚠︎支離滅裂です。
⚠︎勢いで書いたため、誤字脱字あるかも知れません。
「二宮和也」さんを応援し始めて…。
私は彼の本性、本質を見ることができたことは一度もありません。
まぁ、自分の友達や家族でさえ、その人の全ての感情を分かる、理解ができるなんてことはあり得ないし、あり得たら気持ち悪いと思ってしまいます。笑
だから。当たり前なんです。
私が「二宮和也」さんというアイドルを全て理解できる事が一生をかけてもないということは。
当たり前なんです。
全部、私の話す「二宮和也像」はたらればであると。「あくまでも。」である事。
これを頭に入れて読んで頂きたいです。
私と彼が同じ人間であるのに違うところは、(そもそも存在自体も全くちがうのですが笑)
二宮さん自身が
「自分という人間を構成しているのは周りの人間との関係であること。」であるということをずいぶん前から、いやこの世に生まれ落ちた時から本能的に知っていることだと、思います。
自分はあくまでも他人(ひと)によって生かされている。
自分以外の人間がいるから自分のアイデンティティがある、そう信じてる。
だからこそ。「アイドル」ということに強いこだわりを持っているのかな。と。他人にどんな時でも笑顔を与え、努力を見せない。見たままで評価をされる「アイドル」に。
「嵐」の名前を借りないと自分名義で何かを表現することってできない人間だから…と零した言葉は、二宮さんが「アイドル」として見られてきたからこそのイメージがあるからということを皮肉にもわかっているんでしょう。
まるで、自分はどう誤解されても大丈夫だから。そう他人に見られた先が今の自分だから。と言う様に。
「かっこいい」と思われたらかっこいいでいいじゃん。
「優しそう」と思われたら優しいんだよ。。きっと。
「そこまで…」と思われたらその他人(ひと)にとってそんなもんだよ…、と。
「アイドル」は人間そのものが商品、売り物であることをずっと知っていて、その価値もその他人(ひと)が決めることをずっと知ってたからこそ。
「自分」を覆い隠してたのかなと。
だからこそ私みたいなオタクは、少しでもその二宮さんの「自分」を見たくて掘り下げたくなる。だって二宮さん自身のことを知りたいのだから。
しかし、残念なことにそれは今までも。そしてこれからも叶うことのない話であります。
二宮さんが見せる「嵐の二宮和也」しか私は見ることが出来ないから。一生ね。
本当。悪魔でもここまで魂を売りませんよ笑
私が少し狂気的に感じていた「アイドル」への執着心。
ここの芯は、
「どこにでもある唄。」のお話中にも垣間見ることができたように思っております。
2011年4月4日から制作を始めた、唄。
2011年3月11日に起こった東日本大震災を受けて。
歌詞が中々書けなかったというのは以前何かの媒体で見かけてはいたのですが、25日ものを経て産まれた、唄。
私は二宮さんのソロ曲でこの曲が1番好きなんです。勿論。アラフェスもこの唄に投票しました。
“僕らはそんな弱くは無い でも強くもないから”
“だから泣いていいんだ 恥ずかしいことじゃない”
このフレーズに何度助けられたことか。
私事ではありますが、昔。かなりの完璧主義人間でした。ずっと誰かの、みんなの期待に応えなきゃ。やらなきゃ。失敗するのは恥ずかしい。屈辱にあたるんだ。全部できないと。それが私だと。
そうやって自分で自爆し勘違いを犯していた頃、この曲に出会い、人生で初めて唄を聴いて、涙が出ました。
私にとって当たり前だったことを、言霊で柔らかく解いてくれた唄なんです。
そんな助けられた唄のウラ話を聴いて、私が泣かない訳がない笑(二重否定=強い肯定)
もう何回もこのドキュメンタリーを既に見返していますが、毎回号泣してしまいます。
“ずっとここにいるよ”と言う歌詞が4月28日の時点で“ずっとそばにいるよ”だった所。
「うそつけ。と思ったんだろうね…」
はい、ここで大号泣です私。
環境が変わる中で分かりやすい言葉がもしかしたらそう思えなくなるかも知れないからと。
東日本大震災によって当たり前が当たり前じゃなくなる時。
どうしようもないことが当たり前を奪っていくとき。
二宮さんが受けた衝撃はものすごく深いことだったのがひしひし伝わりました。
『なんて他人なんだ。』と。
私の中で言葉にならないものが込み上げてくる音がしました。
「全ての人間にずっと寄り添えない時もある」ことを知っているんです。
あんなに夢、勇気、希望をいつも与えてくれる「アイドル」であるのに。
それが届かない時があることを知っているんです。
だからこそ。自分が向き合えた時、“ずっとここにいるよ”だから、大丈夫。と。待ってるよって。
私たちから自分のタイミングで「彼に縋れる様に」。
だから。唄でしか表現出来なかったのか。と。
私の中で点が線で繋がった瞬間でした。
(その後中野監督と描く「浅田家!」で震災への描写がありますが、そことも物凄くリンクしてるなと感じました。)
だから、泣いてしまったんです。
あんなにひたむきに「アイドル」を貫いてきた彼が少しだけ「二宮和也」を見せてくれた様な気がしたからです。今までに見たことのない感覚だったんです。
“何が正解で 何が間違いで。”
作り手として表現者としての凄さを感じました。
きっと、二宮さんが言ってしまえば「正解」となってしまうケースもあることを見透かしているんです。
この多大なる覚悟は。なかなか大変なものなのだと思い知らされました。
自分から自分のことをあまり評価しないのは、「自分以外の人たちの方が自分の価値を決めているから」であって、他の人からも「二宮和也」の話をあまり聞きたくないのは「既にどう思われてるか知っているから」。彼にとってはそれで十分なんだと、感じさせられるドキュメンタリーでした。
だからこそ。「嵐」といるのが楽しいし、自分を出せるし、楽だし、気取らなくていいし、幸せなんだと思いました。あんだけの思い出があのパソコン一つに詰まっていてそれを少し見れただけ奇跡。
だって彼にとってはそれは人生の宝物なんだから。
みんなが大好きなんだよ。
じゃなきゃ、あんなにスッとメンバーをリスペクトできないと思うし、この関係が成り立たないよ。
泣けます。とても。とっても。
「僕は二宮和也。」
モノローグ調から始まったこのドキュメンタリーは、今まであまり触れられて…いや。みんな自身で受け取って貰いたくて話さなかった「作詞作曲」にも触れてくれ、尚且つ「嵐への気持ち」も感じることができるものすごい熱量のあった映像でした。
Netflixさんありがとうございます。
もう「ヘアバンド」が見所とは言わせません←怖
悪魔の囁きより誘惑度というか沼のある「二宮節」が大好きな私はすでに彼の想定内なんだろうけど、きっと「二宮節」も彼がずっと人間と言うもの知っているから、「アイドル」と言うものを知っているから。人間としての魅力が尋常じゃないから、出てくる言霊なんだと思う。
だからベイスト大好きなんじゃい!!笑
ね、。
二宮和也さんのことは二宮和也さんが一番知っているのだ。絶対。
これはあくまでも。
私の感想です。